ぶなしめじ

隣駅でぶなしめじを買って帰る。

道中、俺は叫びながら自転車を漕ぐ。

「でっかくなるぞ!」「でっかくなるぞ!」

「でっかくなるぞ!」「でっかくなるぞ!」

小さくはならないぞ、という意味である。小さいくせに。

たくさんのこもや(小さいもやもや)が集まって.でかもや(大きいもやもや)になって頭をもやもやさせる。

おそろしいことに、そのもやに構っている間の僕は、幸も不幸もなく"ただイライラ"しているだけなのだ。現実逃避だ!うさ晴らしだ!おそろしい!

憂鬱も幸せも不幸も苦しみも悲しみも極端言えば生も死も、心でも身体でも感覚していないんだから、今日も口だけ達者達者失敬失敬。

 

"判断"に関する本を読んでいる。半分ほど読んだけれど、著者の言いたいことがまったくもって見えてこない。けど、即興芝居の話はとてもおもしろかった。相手の言ったこと"を"否定しない。肯定する、ことで、リズムを生む、遮断しないことで生(動)を生む。掛け値なしの全肯定。

逆に言えば、否定はノングルーヴなのだ。

声では肯定していたとしても、仕草が、口元や、目が、否定していたら、それは不協グルーヴなのだ。

人と何かをするときは(話を聞くときとかもそうだけれど)全身全霊の全肯定、全全全肯定のスタンスでいなければならない。

 

いったいいち、でいるから軋轢(ぎくしゃく)が生まれる。遠慮、必要のない思慮、おもいちがい。

"ぼくら"は"いったいいち"、ではない。

たしかにぼくはぼくだし、あなたはあなたなのだ、

けれど、あなたのともだちのぼくであり、ぼくのともだちのあなた、と考えてみると、行動は素直になる気がする。

自分のことを"私"というとき、の

私は(=私)  だと思う。

自分の意見を通したい、ちがうな、

自分のこと(意見)をわかってほしい、そんなときは、

私(=◯◯のともだちの私)

と私に奥行きを持たせてあげる。

私が、なにをいうかではなく、

◯◯のともだちの私なら、◯◯になんというか、なんてアドバイスをするだろうか、

私vs私の"いったいいち"で、その関係、物事を見る限り、勝ち負け、マウントの取り合い、出し抜きあい、そんな私同士の消耗戦になってしまう。

だから私は私の私に奥行きをもたせる。

 

そんな風に考えたら、(この)人間関係も上手くいくのではないかと、ふと思った。

ぶなしめじを入れるまえに、みそ汁がフットーしてしまった。f:id:ebinokoshimaru:20180214033426j:image