野比のび太に引くことの美学を学ぶ。

ドラえもん スタンドバイミーをみた。

 

誰かに何かをやってもらっていると心が妙になる。落ち着かないのかもしれない。誰かに何かをしてもらってる、と心が思うとき心が急ぎ焦る。自分でゾッとしたのだけど、誰かが自分のために何かしていてくれた、くれている(動いていてくれた、くれている)としても、僕は、僕の心が気づかないかぎり急ぎ焦ることもなく、無縁に無限に無関心なのだ。こんな途方もない残酷があるだろうか、だから、心は常に開かれて感度が高くなければ、あなたの心にも、自分の心にも合わせる顔がない。

 

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大切に"すること"には時間がかかるし、"大切"にも時間はかかる。

ファストフード、ひいては街で行われる外食は使い捨て感覚(個人の考えです)に近いと思う。いっかいこっきりの欲望をいっかいこっきりdemitasseで満たす。そんな風にこっきりこっきりと奇妙な音を立てて生きている奴が、未来だなんだと(ここは飛躍してる)のたまう.叫んでいる(SNSで)のだから頭がべきべき(辟易)してしまう。そんなこっきりタイムで生き生きしている人がウン十年、ウン百年後というタイム感を持てるのは稀だ。大は小を兼ねるが、小が大を兼ねることはまずない。

 

簡単でいいから食事をつくる、朝食を、夕食をつくる、という行いは、自分の時間(感覚)をつくるという行為だ。自分に対しては神聖で、他人に対しては解放された行為だ。

 

少し手のこんだ(肉などを使った)料理になると、人間らしさが前面に出てしまって感覚をつくる行為ではなくなる。それは趣きであり癖だ。

(ライオンはインパラに塩コショウをふりますか?)

 

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あくまでシンプルでいい、根菜1、2品のお味噌汁でいい。それくらいシンプルな時間でいい。その時間感覚こそがあなた(人間)のたまものなのだ。

 

その時間を、その極小時間を大切にできるから、ものを、人を、猫を、誰かを大切にすることができる。この時間感覚がない人は、ただ人に与えられてきた感情を、大切しているだけだ。シンプルに見えてシンプルでない。

時間感覚を持っている人  自分=自分

持ってない人   "幻影の影"自分=自分

それがほんとうに自分だと勘違いの勘違いをしている。勘違いの勘違いゆえに自分があると、自分のことをよく知ってると思っているくせに自分のことを説明できない。大切な自分のなにが大切かよくわかっていないなんてへんてこ人間だ。大切とは極小の結果なのだ。小さなルールを守ることで大きなルールを破ることができる。

その小さなルール自分で作ってしまえば、社会的な大きなルールでなく、自分が自分にくくりつけた自分を支配している大きなルールが見えてきませんか。きませんか。

 

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これマザーテレサではなかった気がするんだけど、マザーテレサしかでてこないので、どこかで東京愛憎政府情報省かイルミナティに世界線を書き換えられた可能性があります。(私の記憶がそう警告しています。)

マザーテレサ(噂)の真相しかり、懐疑でしか信仰は深くならない。猫もカリカリを信じている。でもカリカリが車に轢かれそうになっても、身を呈して守ったりはしないでしょう。カリカリに裏切られ、期待し、期待され、疑い、なおも信じることができたなら、それは世界初の信仰猫の誕生です。 素直でいるためには素直でいてはだめなんです。(トートロジー)

 

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