Kings Of Convenience - Boat Behind

40日ぶりにコンビニおにぎりを食べる。人差し指第一関節2つぶんの一口を時間をかけて咀嚼する。これはせめてもの(生産者と時間感覚を大切にしなかった自分への)償いであり決意表明(意志確認作業)だ。

唇が割れるビッという感覚を、寒さのバロメーターにしている。おにぎりだからだろうか、お箸(chopstick)で 口にものを運んでいるあいだは、リップクリームのお世話になることはなかった。お箸は自分の延長(慣れた車)であり意志の具現化を実現する。

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目の前の食べものを、自分の口の大きさに、適切な形にすることができる。

しかしコンビニのおにぎりはどうだろう、おにぎりとして適切な形をしているだけで、個の口の大きさには対応していない、口の小さいひとには大きく感じ、口の大きな人には小さくみえる。(何者かに)与えられるか、(自分に)何を与えるか、どちらも自分の選択だ。

 

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社会や、自分より大きなものに従う、従わされるとき目に見えない刃が、個人のバリを落としていく、"なにか"(血液型、星座、ルール)に当てはめられるとき、常に人は不快感を覚える。(今日がただ乾燥していただけです。)けれど、乾燥も大きな自然のルールの1つだ。

 

"形のととのった"おにぎりさえも、かわいいと言ってしまうのはもはや業ではないか。

そうとしか表現できないと思っている、例えばこのあいだの日記の、"心が急ぎ焦る〜"というところはまず先に"せきたつ"と書いた(表現した)。僕の心はよくせきたつ、(としか表現できない状態におちいる、なることがおおい。)だけどこれは個人の感覚であり、この日常性の(ある)焦燥感が伝わることもあるだろうけど、伝わりきらないことのほうが大半だろう。だからなるべく言い換えるし、そのとき、頭の中でおこなわれている、変換作業も、文字に起こし視覚化している。

そう(こう)してみると、この気持ちはこう(そう)である、そう表現しよう、こう言葉にしよう、といったような、頭の、心の、感覚の、振る舞い(仕草、くせ)が見えてくる。これは追体験の産物だ。納豆はくさい。納豆はくさい。納豆は、、、納豆はくさいままだ。

 

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現実(在)は追体験の 結果でありつづける。その恒常性(一定でありつづける)をどうやって無常に(押し上げる)するか。

納豆をバイオ燃料にすればいい。追体験さえも、以前でなく、追体験する瞬間さえも改変可能な機会ならば、バイオ燃料にしてしまえばいい、さながらあなたは超時空有機生命体だ。

 

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アハ体験は視覚的なものではない。それはいつでも起こりうる。茂木さん(茂木健一郎)のアハ人類補完計画は失敗に終わったが、彼を初めてテレビの向こうに見たときに覚えた恐怖は昨日のことのように思い出せる。アハしつづけることで眠ることのない高感度東京はいずれ光の渦に飲まれ消滅、眠ることのなくなった日本人に瞼は必要なくなり、よりアハを求めるために黒目が発達して、グレイのような姿になるだろうし、十数年前から日記タイトルのセンスが無さすぎるので今後は書いている時に流れてるいる音楽をタイトルにしていくと今心に決めました。