Superorganism - Everybody Wants To Be Famous

座り心地の良い椅子がほしい、座っているだけで幸せになるような、暖かくなったら狭い庭(冬の間は飲み終えたビール瓶などを積み上げた無法地帯、ぼくは《煉獄》と呼んでいる)を耕して、そんな場所にしよう。

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結局ぼくは100冊の本を読もうとも100回聖書を読んだ奴には敵わないことを知っている、うつのリアリズム、何事も平等にとらえる、考える、から答えが出すことができない、なにも特別なことではない、(身体的おかず感覚など)、博愛でも、優しさでもない、ただ、頭で考える幸も不幸も、良い悪いも、リアルに考えてしまう、起こりうる不幸であると、起こりうる幸であると、リアル(に)してしまう、"なぜなら"、起こった不幸は起こりうる不幸であり、起こった幸いは起こりうる幸いであるからだ、暖簾に腕押し、無意味の上で地団駄を踏み続けるようなリアリズム、決定という名の無決定が"目の前で行われつづけて"いる。

 感覚の裏付けを求めてしまう、それ以上はないというのに、そうである理由を探してしまう、そうなった理由(ワケ)を延々とディグダグする、ポジティブの本を読む、−7を−2にする必要はないらしい、(-2は結果でありいつだって悲観者は0を目指してきた!)苦手を"克服"する必要はないという、それはそのままでいい、マイナスを見つめ、解決するより、プラスを見つけ、伸ばしなさいと、見つめないことで因果を、原因と結果を"振り切り"なさいと教えている、"断ち切る"(または受け入れる)ことで得られる副産物として"悟り"がある、(とおもっているが、)振り切りの副産物とはなんだろう。

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下に掘り進むことは遥かな上昇である、それは宇宙構造から見てもあきらかだ、幼少期のトラウマ、結果(現状)の原因(トラウマ)を探りつづけることは追体験の連続で果てしなく辛い、けれど探ぐる価値があると思える、フロイト的な考えは絶対ではないし、古い考えではあるけど、(自分の経験上)腑に落ちることが多々あった、トラウマの源泉に突き当たったとき、それは間欠泉のように一気に身体を、脳を駆け上がり今に昇華する、その、符合、一致、調和は紛れもなく上昇の瞬間であり、必ず、人知れず内部で起こる、そして快楽でもある、この快楽を、一瞬で過ぎ去る快楽を、観察する地点、アベレージ地点の横軸こそが解脱に至る輪廻だ。、という考えを、可視化されたこの構造そのものを、壺のように、それはそれとして、と扱える、そばに置いておくことができるようになるのが、"振り切り"の行き着く先なのかもしれない、(振り切りつづけることはあまりに力がいるだろうから)、逃れることのできない、思い込んでしまった真理、正しい正しくないは別として各々がもっているひとつの真理、を"それはそれとできる"ことで、別の真理へと"走っていける"、何かに向けて"走っていける"こと、こそが、ポジティブそのものなのかもしれない。

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